モザイク画の教訓~参政党へ抵抗するために福岡地区合同労組ニュース2025年8月号に寄稿

2025年07月27日

2400年前のモザイク画。 

骸骨のモザイク画は、小さな石を丁寧に並べて描かれたもの。

トルコで発見されたその絵には、骸骨がパンを食べ、ワインを飲みながら、こう喋っています。 

「どうせ死ぬんだから、楽しくやろうぜ」と。

このモザイク画は、古代から続く「メメント・モリ(死を忘れるな)」の思想を表現したものかもしれません。ただし、ここでの「死を忘れるな」は、恐怖ではなく、むしろ逆の意味で使われている。死すべき存在だからこそ、今この瞬間を大切に、楽しく生きよう、という古代ギリシャ人らしい哲学です。

その古代ギリシャ人が描いた姿は、どこか微笑ましくて、少し切ない。けれど、そのメッセージは今もなお、人類の根っこの部分で、生き生きと脈を打っています。限られた命の中で、自分自身は一体どう生きるか。

できれば楽しく。できればカッコよく。

そう願うのは、時代も国境も超えて、人間の本音ではないでしょうか。

だから思うのです。 

誰かを差別するより、差別しないと言い切る方が、ずっとカッコいい、と。

けれど、2025年参院選での日本は、どうでしょうか。 「生活苦は外国人のせい」「ばか、チョン」「スパイがいる」「15円50銭と言ってみろ」「発達障害は存在しない」などと選挙期間中に主張する、極右の参政党が目立ちました。その姿勢は「正義」や「自衛」の仮面をかぶせて、異論を排除し、社会に恐怖をまき散らすのです。本当に危ないのは、誰かを吊るし上げ、黙らせ、少数者の声を切り捨てる社会そのものです。「敵か味方か」で線を引き、異質なものを潰していく――そんな空気の行き着く先に、運ばれてくるのが戦争です。歴史はそれを何度も繰り返してきました。僕がもっと怖いのは、参政党の神谷宗幣代表よりも、それに熱狂する多くの人たちです。そのヘイトっぷりに、日本各地で批判の街頭行動が巻き起こりました。この福岡でも。 参議院選挙期間中の7月18日に、緊急な呼びかけにもかかわらず、50人ほどの人たちが集まり、差別をあおる参政党に対する批判をスピーチやプラカードで示していました。

しかし残念ながら、参院選で、参政党は大幅に議席を増やしました。自民党と公明党は参院全体の半分以下に減ったのは幸いでしたが、複数の改憲派極右政党がこうも増えたら意味がありません。

古代ローマの哲学者セネカも、似たようなことを言っていました。「人生は短いのではない。私たちがそれを短くしているのだ」と。憎しみや恐怖に時間を費やすのではなく、愛や創造に向けるべきだと。あの骸骨も、きっと同じことを言いたかったのかもしれません。

人類は、骸骨の冗談に笑いながら、その教訓を忘れがちです。 でも、僕たちは選べます。 不安や怒りを、薄っぺらい仮想敵にぶつけるより、不安と共に立ち止まり、共に笑える道を。 

「どうせ死ぬんだから、楽しく生きようぜ」

 差別なんて、ダサいことは消し去って――あの骸骨のように。

(いのうえしんぢ)